台風の目は無風だったか?

水曜日の深夜3時、昨日の一件からそわそわしてしまって眠れなくて、なんとなくこのブログを書き始めてしまいました。

いま少し、僕がまだ会社員をやっていた頃のことを思い出していました。

当時僕は、某食品メーカーで品質保証の仕事をしていました。しかし、最終的には「うつ病」を患い休職し、回復して復帰するも再発し、状況が好転することなく休職満了、それを理由に自然退職という形になったんです。

正直、あの頃のことを思い出すと今でも吐き気がこみあげて来ますが、「うつヌケ経験あり」とプロフィールに書いている以上は、本当にザックリですが、エピソードとして残して置こうと思います。


あの頃、僕が働いていた職場には「スーパーパワハラ部長(以下、P部長)」がいました。P部長は現場の総監督のような立場の人で、社内外においてとても力のある存在でした。

製造業では”あるある”ですが、品質保証の担当者は、現場から恨まれる存在であることが多いです。なぜなら我々は、現場にブレーキを掛ける存在だからです。P部長も例外ではなく、品質保証部を目の敵にしていました。

僕が品質保証の部署に着任したのは26歳の頃で、P部長の新人いじめは着任初日からはじまりました。

はじめはP部長の側近であるコバンザメ課長を送り付けてきて、初日から特に緊急性のない依頼を大量に投げつけられ、夜遅くまで広い現場の雑巾がけを一人でやらされ、使い方も分からない危険な機械の洗浄を、手元も見えない消灯後の真っ暗な現場でやらされたりしていました。毎日とはいかないまでも、最低でも週に3日は、そんな感じでした。

もちろんそれらは本来であれば、すべて管轄外の仕事です。上司にも相談はしましたが、取り合ってもらえませんでした。

今思えば、上司は上司で、P部長が怖かったんだと思います。他の部署の人たちも、とてもじゃないけど逆らえるような状況ではありませんでした。

でも、一人で黙々と作業をするだけの仕事なら、心を殺して無心になれば、何とかやり切れるものです。時には深夜まで掛かることもありましたが、その分残業代はきっちり頂けるので「まぁ、しかたない、そういうものだ」と飲み込んでいました。

僕は入社して間もなかったこともあり、「会社とはそういうものだ」と納得するしかなかったですし、それでもなんとか時間を捻出しながら、本来の業務ともうまく両立していたと思います。

しかしP部長にとっては、そんな僕の前向きな姿勢が気に入らなかったらしく、余計に火をつける結果となってしまったようです。

品質保証部に着任してから2年が経ったころ、P部長は時折、品証フロアまで駆け上がって来ては、意味の分からないことを執拗に怒鳴り散らすようになり、言いたいことを言い終わるとすぐに、現場の職員が全員聞いている無線機を通して、事実無根の悪口を延々と垂れ流すようになりました。

それからはほぼ毎日、P部長による”演説”を頭越しに浴びせかけられながら、別の部署の管理職からも「仕事にならんからなんとかしろ」と詰められて、僕はいつの間にか円形脱毛症になり、左の耳の上がすっかり禿げ上がってしまいました。

そんなクソみたいな毎日にも慣れ、円形脱毛症も治りかけたある日、僕はある方法を使って反撃を開始したのでした。

P部長は、毎月の定例会のあと、タバコを吸いに喫煙所に降りて来ます。その頃僕は議事録担当をしていたこともあり、P部長にくっついていって、聞き漏らした箇所の確認をするようになったんです…それはもう、執拗に。

もちろん最初のころは「そんなことも分からないなら辞めちまえ」とか「本当に学校を出ているのか」とか、時には「死ねよ」などと、人格否定も甚だしい悪口を浴びせかけられましたが、やめませんでした。

定例会以外にも、現場へのささいな連絡や、新しいプロジェクト、新製品に関する情報や、現場への言いずらい提案など、本来ならP部長へ直接連絡する必要のないものまで、さまざまなシーンで語り掛けました。台風の目は無風。”895hPa”のP部長も、とにかく懐に潜り込むつもりしまえば無風だと信じて、その強風に抗ってみることにしたんです。

実は昔、介護のアルバイトをしていた頃のことを思い出したんです。認知症を患っており、介助時にどうしても暴れてしまう利用者さんに落ち着いて頂くために、肩などに優しく触れながらこちらの体温を感じてもらい、相手の目をまっすぐに見ながらキラキラした視線を送り、落ち着いた声色でゆっくり話しかけるという作戦。結構好評だったんです。

もちろん、P部長の肩に手を置くようなことはしませんでしたが、介護のアルバイトをしていた時と同様に、P部長の真っ黒い瞳の中をまっすぐに見つめながらキラキラした視線を送り続けました。

数ヶ月の間、人格否定も甚だしい罵声に耐えながら、この作戦を決行し続けました。時にはP部長の家庭のことや、P部長が大切にしているペットの犬の話、お子さんの話、とにかく雑談でも何でも良いので話掛け続け続けたんです。

その結果、P部長からの”僕へ”のパワハラは、ある日突然、”熱帯低気圧”に変わりました…。


それは、品証に着任してから5年目のことで、キラキラの視線の成果もあってか、P部長は僕に絶大な信頼を置いてくれるようになりました。

それからの毎日は、社内で僕だけがP部長からのパワハラを受けないという恩典を手に入れました。このことは本当に幸運だったと思っています。しかし、P部長のパワハラから逃れることができたのは僕だけであり、他の社員へのパワハラが無くなったわけではありません。自分の努力の成果とはいえ、とても申し訳ない気持ちもありました。

しかし、周りの管理職の方や社員の方たちも、P部長には直接言いずらいようなことを「変わりに言ってくれないか」と頼まれるようになり、様々な部署で仕事の効率化が図れたそうなので、それはそれで、持ちつ持たれつ、うまく仕組みが回っていたのかも知れません。まぁ、そもそもまずは、P部長のパワハラをなんとかしろよとは思いましたが…。


それからしばらくして、品質保証部の管理職に就いた僕は、パワハラの無くなった職場でのびのびと仕事をしていました。社内の雰囲気も落ち着いて来たようで、P部長の周囲へのパワハラも、自然と”小康状態”になって来ました。

そんな矢先、社内で大きな事故が発生し、回収騒ぎとなってしまったのでした。

日夜、東京の本社から幹部社員がゾロゾロとやって来て、「帳票をだせ」「規定を説明しろ」と朝から晩まで尋問の嵐。当然ですが、現場の品質に関する責任者だった僕は、矢面に立たされることになりました。

それからのことは必死だったのであまり覚えていないのですが、とにかく現場に改善命令を出したり、矢継ぎ早にルールを変更したり、管理表の様式を総入れ替えしたりとバタバタしていて家に帰るのは月に数日と言ったところでした。現場には事務所以外のいたるところにカメラが設置され、24時間365日監視されるようになりました。

ある朝、会社の門の前で、パートさんが空を見上げて立ち尽くしているのを見つけ、声を掛けました。

「会社に入ると、空が見えなくなっちゃうから…よく見ておこうと思って…。」と悲しそうにパートさんが言うんです。

僕はその時、回収騒ぎの波に飲まれて、現場の気持ちが置き去りになっていることに気づかされました。

いろいろ手を尽くしましたが、P部長のパワハラの再燃と、厳しすぎる管理に現場が疲弊し、社員やパート含め、1ヶ月に40人が自主退職する事態となってしまいました。

P部長は相変わらず、品証フロアにやってきては、僕以外の社員にパワハラをする様になりました。時には、あの頃の様に、大声で怒鳴り散らしたり、人格否定も甚だしい罵声を浴びせかけるなど、それは酷いものでした。僕は、密かに怯えていました。いつかは自分もあの頃に戻るんじゃないかと。ずっと、そのことばかり考えるようになりました。

社内は、本社とP部長の”迷走台風”で総荒れでしたが、通常の仕事もスケジュール通りこなさなければなりません。特に大きなイベントは、秋の新製品の制作試験でした。

少ない人数の中、社員総出で手分けして進めましたが、何度試験を繰り返しても製造ラインが新規製品の物性に合わず、失敗を繰り返していました。その傍らで、東京本社からの尋問も、P部長の周囲へのパワハラも、変わらず続いていました。

そんなある日、新規製品の製造試験中、僕は過労で倒れました。身体も心もボロボロでした。

倒れたとき、隣に上司が居ましたが、見て見ぬフリをしたそうです。大ごとにしたくなかったのと、責任を被りたくなかったのでしょう。きっと、何事もなく終わってくれと、心の中で祈っていたのではないでしょうか。

代わりに駆けつけてくれたのは、現場の若い社員さんでした。その後、救急車で運ばれ、後日会社に戻ると、会議室に通されました。

そこからはあっという間で、管理職を下ろされたり、休職したり。少し休んだら復職を急いでくれと言われ、現場に戻り、再発し…の繰り返し。最終的には、8月の暑い時期に、物置小屋のようなエアコンもない小部屋に異動という形で押し込められ、自主退職を促されました。

思い出すだけで吐き気がするので文章がブレてますが、ザックリ言うと大体そんな感じです。僕にも落ち度はあるんだと思います。一方的に会社が悪いとは、今でも思っていないし、戻れるものなら、あの職場に戻りたいとまで思うくらいです。不思議ですね。

振り返ってみると、僕が「うつ」になった原因というのは、正直よくわからないです。P部長のパワハラ…といえばそうなんでしょうが、本当は、管理職を下ろされたとき「自分の居場所がなくなった」「必要の無い人間の烙印を押された」という感覚があったのが、一番しんどかったことなのかもしれません。

やはり、どんな環境においても「誰かに必要とされている実感」というのは、精神衛生上、とても大切なことなんだなと思いました。

いま僕は誰かに必要とされているんでしょうか…。
ちょっとよくわからないですね。