優れていないヤツは無慈悲に引き摺り込まれる渦潮

今日の独り言。

就職や転職の面接では「長所」や「短所」を聞かれる。

「短所」についても「長所に転じることができる様に述べること」が望ましいとされる。

「長所」とは「完璧とまでは言わないが少なくとも他人より優れているところ」を言語化した~とかなんとか。

「あなたの長所を教えてください」「他の人より優れていると思うことはなんですか」「得意なことを教えてください」〜とかなんとか。

アルバイトで2回、新卒採用で1回、転職で3回聞かれた。正直うんざりした。

見ず知らずの他人の採否を決めるために、情報を引き出して振り分けをしなければならないのはわかるよ、そういうものだから。

でも、この社会で暮らしていくために「優れていなければならない」と考えるのはやっぱりおかしい。

いや、面接だから便宜上そう聞いているだけで必ずしも「優れていなければならない」なんて相手は考えていないだろう…と反論されそうだが、でも心のどこかで思っているでしょ?

優れているから選ばれる。

優れていないものは選ばれない。

だから、人も商品もデザインも環境も、どこか他より優れている必要があると。

これは感覚だけど、その需要のバランスは決してグラデーションなんかではなく、特別優れているものへ一極集中している気がする。

少しでも劣っているものは全く選ばれないか、存続するには不十分な需要しか与えられない。

いちお言って置くと「努力して需要を勝ち取れ」とか言うのはまた別の話し。横に置いといて。

例えば、そこの街角にあった「老夫婦が経営していた蕎麦屋さん」も、駅前の「ちょっと薄汚れているけど味は抜群にうまい餃子屋さん」も僕は大好きだったけど、でも近所に有名なチェーン店が出来てあっけなく潰れた。

生き残るためには「他より優れているところ」を伸ばして差別化する必要があったのかもしれない。

有名店に引けを取らない素晴らしい商品を開発すればよかったのかもしれない…。

でも僕は、いつまでも変わらないところが好きだった。

ところで僕が自身の「優劣」について言えることは、ひとつしかない。

自己判断で「優れている」と決めつけるには世界はあまりにも複雑で、そもそも「それ」が能力と言って良いものなのか、「良いもの」と決めつけて良いものなのか…。

要するに「よく分からない」…と言うこと。

世の中の複雑さを知れば知るほど、自分という存在の未熟さや無力さに気づかされる。

「あなたの得意なことは?」だなんて、こんなちっぽけな僕にいったい何を期待していると言うんだ。

僕は僕をある程度のところで諦めている。

諦めたままの自分でも、なんとかうまくやって行こうと努力してる。

でも、この世界は驚く様な速度で水底に引き込まれて行く渦潮のようなものだ。

僕の意思や想いや願いなんて全部無視して、なんでもかんでも飲み込んでしまう。

とても無慈悲だし…

最後に残るのは実存的空虚だけ。

そんなとき「社会(世界)とはそういうものだからあきらめろ」と誰かが言った。

理屈では正しい、仕方のないことだ!

でも、この世界の内側で暮らしている一人の人間として、心からそう信じて良いものだろうか。

そうすることで、自分で自分の首を絞めているんじゃないだろうか。

本当は、もっと違った見方があるんじゃないだろうか。

僕はポンコツだし未熟だし無力だ。

他人より優れているところなんてない。

たったひとりの人間さえ幸せにできない。

でも、僕は僕が嫌いじゃないしむしろ好きだ。

ときどき空っぽになってしまうけどそれも悪くない。

諦めと不安を抱えながら、なんとか生きてる。

「好き」とか「嫌い」って感じで、そういう幼い感情で物事を見ていたい。

別に自分が得しなくても良いし、誰かの為に犠牲になっても構わないから、ただ平穏に暮らしていたいだけなんだ。

でもそういうのは、優れている人だけが手にする世界なのかも知れない。

もう疲れたので考えるのはやめよう。

僕が実在的空虚から抜け出す方法があるとするならそれは、最後の扉を通って宇宙に溶けるか、もしくは、首のうしろにあるヒューズを切って生きるしかなさそうだ。

探求はつづく、どこまでも。

今日の独り言おわり。