2024年問題について考えてみた
2024年問題とは、働き方改革法案により運送ドライバーの労働時間に上限が課されることで生じる問題の総称のこと。
国の「持続可能な物流の実現に向けた検討会」では、2024年問題に対して何も対策を行わなかった場合に、トラックの輸送能力が2024年には14.2%さらに2030年には34.1%不足する可能性があると試算している。
これらは2024年4月1日より施行されるそうだ。
これまでは、スーパーやコンビニに野菜や果物、肉や魚など大量の商品が陳列されていることに疑問を抱くことはなかった。
近所にある24時間営業のスーパーに行けば、文字通り「いつでも」「なんでも」手に入る。
夜中に急に鍋焼きうどんが食べたくなっても、うどんやネギが手に入らないということは無かった。
あくまでも可能性の問題ではあるが、これからはそういう「当たり前」のことが「当たり前」ではなくなるかも知れない。
生鮮食品の輸送、無料で何度でもしてくれる再配達、当日・翌日配送などはなかなか難しくなるのではないだろうか。
実は僕も数年前にドライバーをしていた。
力仕事な上に、朝は早いし帰りは遅い、航空貨物輸送。
仕事の手順はシンプルで、空港で受け取った荷物を指定された届け先へ届ける、そして各地で集荷した荷物を空港へ届けるだけ。
1日の走行距離は300~700㎞程度で、1日の拘束時間は13~16時間程度。車両は4トン。配送先はほぼ100%企業や工場などの法人だった。
1日に集配送する荷物の重量は、少ない時で1トン未満、多い時は5トン以上になる。
配達する荷物で最も多かったのは、第一位がマスク。第二位は季節ものの衣類、第三位が工業製品や部品、時には金型や小型農機なども運んでいた。
この仕事は、配達前日の18~22時頃に空港で荷物を受けとり、一旦家に帰宅して、翌朝にまた出社する。
点呼やアルコールチェック、車両の点検を済ませたら、早いときは明朝3時、遅くても朝6時には車庫を出発していた。
実は、意外なことに、運転や荷物の積み下ろしをしている時間よりも、客先や空港で待機させられている時間の方が長かった。
酷いときは6時間以上待たされた。
ドライバーの労働時間が長時間化してしまう原因は、荷下ろしや積み込み時の順番待ちや、前のトラックの積み込みや荷下ろし待ちによる待機時間、朝の開門に合わせた時間指定による到着トラックの集中がほとんどだと感じる。
朝の開門に合わせた時間指定とは、企業の営業開始時間や、荷受場の門の開門時間を伝票で指定することで、多い時は20台くらいのトラックが同じ時間を目指して到着する。
指定された時間に到着しても順番待ちの列に並ばなければならないので、皆さん時間よりもかなり早く到着する。
すると、みんな競い合ってどんどん早い時間になって…。
とまぁ、小さな努力で解決できることがなぜかうまく回っていないのが現状で、この待機時間問題が解決するとドライバーは多少楽になるのではないかと思う。
トラックドライバーを経験して変わったことは、Amazonで2ℓ×12本入りの水のような無意味に重いものを買うのはやめようと思ったこと(代わりに浄水ポットを買った)。
のどが痛い
2日ほど前から喉が痛い。
子どもの頃から扁桃腺が腫れやすくて、40度の熱を出してよく寝込んでいた。
扁桃腺は何のためにあるんだろう。
もういっそ晴れるのがその機能の大半なような気がしている。
こういうのは初期対応が大切で、基本は保湿と殺菌を怠らないことで対処できる。
僕は龍角散のど飴と、のどスプレーの組み合わせがお気に入りで、最高の気休めになってくれる。
どうもストレスや疲れが限界を超えそうな時にになりやすい様で、ちょっとしたバロメーター代わりになっているのかも知れない。
まぁ、ひどいときは40度の熱を出して寝込んでしまうので、指標としては全く役に立たない…。
今月は寝込んでいる暇はないので、熱が出る前に抑え込みたいものである。
とりあえず静養。
そういえば、いつもならこのブログはパソコンで書いているのだが、今日は布団の中からスマホで書いている。
入力はパソコンの方がサクサク進むから好きなんだけど、パソコンが手元に無いときでもスマホでブログが書けたらもっと気軽になるのかも知れない。
スマホは使い慣れているし、フリック入力も苦じゃないけど、パソコンと比べるとまだ少しストレスがある。
スマホで長文を作ることにも、少しづつ慣れる様にしていきたい。
それと、いつか扁桃腺の切除手術も検討しなければ…。
疲れが溜まる度に40度の熱が出るので、不便でならない。
優れていないヤツは無慈悲に引き摺り込まれる渦潮
今日の独り言。
就職や転職の面接では「長所」や「短所」を聞かれる。
「短所」についても「長所に転じることができる様に述べること」が望ましいとされる。
「長所」とは「完璧とまでは言わないが少なくとも他人より優れているところ」を言語化した~とかなんとか。
「あなたの長所を教えてください」「他の人より優れていると思うことはなんですか」「得意なことを教えてください」〜とかなんとか。
アルバイトで2回、新卒採用で1回、転職で3回聞かれた。正直うんざりした。
見ず知らずの他人の採否を決めるために、情報を引き出して振り分けをしなければならないのはわかるよ、そういうものだから。
でも、この社会で暮らしていくために「優れていなければならない」と考えるのはやっぱりおかしい。
いや、面接だから便宜上そう聞いているだけで必ずしも「優れていなければならない」なんて相手は考えていないだろう…と反論されそうだが、でも心のどこかで思っているでしょ?
優れているから選ばれる。
優れていないものは選ばれない。
だから、人も商品もデザインも環境も、どこか他より優れている必要があると。
これは感覚だけど、その需要のバランスは決してグラデーションなんかではなく、特別優れているものへ一極集中している気がする。
少しでも劣っているものは全く選ばれないか、存続するには不十分な需要しか与えられない。
いちお言って置くと「努力して需要を勝ち取れ」とか言うのはまた別の話し。横に置いといて。
例えば、そこの街角にあった「老夫婦が経営していた蕎麦屋さん」も、駅前の「ちょっと薄汚れているけど味は抜群にうまい餃子屋さん」も僕は大好きだったけど、でも近所に有名なチェーン店が出来てあっけなく潰れた。
生き残るためには「他より優れているところ」を伸ばして差別化する必要があったのかもしれない。
有名店に引けを取らない素晴らしい商品を開発すればよかったのかもしれない…。
でも僕は、いつまでも変わらないところが好きだった。
ところで僕が自身の「優劣」について言えることは、ひとつしかない。
自己判断で「優れている」と決めつけるには世界はあまりにも複雑で、そもそも「それ」が能力と言って良いものなのか、「良いもの」と決めつけて良いものなのか…。
要するに「よく分からない」…と言うこと。
世の中の複雑さを知れば知るほど、自分という存在の未熟さや無力さに気づかされる。
「あなたの得意なことは?」だなんて、こんなちっぽけな僕にいったい何を期待していると言うんだ。
僕は僕をある程度のところで諦めている。
諦めたままの自分でも、なんとかうまくやって行こうと努力してる。
でも、この世界は驚く様な速度で水底に引き込まれて行く渦潮のようなものだ。
僕の意思や想いや願いなんて全部無視して、なんでもかんでも飲み込んでしまう。
とても無慈悲だし…
最後に残るのは実存的空虚だけ。
そんなとき「社会(世界)とはそういうものだからあきらめろ」と誰かが言った。
理屈では正しい、仕方のないことだ!
でも、この世界の内側で暮らしている一人の人間として、心からそう信じて良いものだろうか。
そうすることで、自分で自分の首を絞めているんじゃないだろうか。
本当は、もっと違った見方があるんじゃないだろうか。
僕はポンコツだし未熟だし無力だ。
他人より優れているところなんてない。
たったひとりの人間さえ幸せにできない。
でも、僕は僕が嫌いじゃないしむしろ好きだ。
ときどき空っぽになってしまうけどそれも悪くない。
諦めと不安を抱えながら、なんとか生きてる。
「好き」とか「嫌い」って感じで、そういう幼い感情で物事を見ていたい。
別に自分が得しなくても良いし、誰かの為に犠牲になっても構わないから、ただ平穏に暮らしていたいだけなんだ。
でもそういうのは、優れている人だけが手にする世界なのかも知れない。
もう疲れたので考えるのはやめよう。
僕が実在的空虚から抜け出す方法があるとするならそれは、最後の扉を通って宇宙に溶けるか、もしくは、首のうしろにあるヒューズを切って生きるしかなさそうだ。
探求はつづく、どこまでも。
今日の独り言おわり。
実在的危機に直面したロボット掃除機
部屋の中を縦横無人に走り回るロボット掃除機に左足を嚙まれながら思った。
「人生に意味なんてない」は本当かも知れないと。
コンビニの帰りにスーパーに寄って、卵2パックを買った。
本当は他にも買わいといけないものがあったような気がしたけど忘れた。
いろいろなことがうまく行かなくなると、だんだん生きているのがどうでも良くなって行くのを感じる。
何をしても楽しくないし、どこにいても落ち着かない。
ドッグに戻ろうとするロボット掃除機が、赤外線の光を見つけられなくて、何度も何度も僕の足にぶつかってくる。
今の僕は、ドックに帰れないで充電切れしてしまうロボット掃除機と同じだと思った。
戻る場所も見つけられないし、戻り方も分からない。
残りの充電残量で、無事、充電ドッグまで帰れるのだろうか。
柿のコンフィもどき
父が実家から地元で採れた柿を食べきれないほど持って来たので、久しぶりに柿のコンフィもどきを作ることにした。
ジャムやコンフィもどきは瓶を煮沸消毒する手間を除けば案外簡単で、基本的には実を潰して砂糖を入れてアクを取りながらひたすら煮るだけ。
↓レシピはこちら↓
●柿のコンフィもどき
柿:大きめ4個
レモン汁:大さじ2くらい
生姜:小さじ1くらい
グラニュー糖:100〜120gくらい
柿は食べやすい大きさで、かつ瓶に入るサイズに切って置く。ジャムにする場合はフードプロセッサーなどを使ってドロドロにしておく。あとは鍋に材料を全部入れて、焦げ付かないようにかき混ぜながら20分ほど煮込むだけ。ときどきアクを取る。
火を止めた後、最初は水っぽい感じが残るが、冷えると固まる。煮沸消毒済の瓶に、口のところまでコンフィを詰めて余計な空気が入らないようにする。粗熱をとって、冷めたら冷蔵保管。
●瓶の煮沸消毒
大きめの鍋に水と耐熱のガラス瓶と蓋を入れて5分ほど煮沸すすだけ。注意!沸騰したお湯に直接瓶を入れると割れることがあるので必ず水から沸かすこと。
保存期間は短くなるが、甘さ控えめが好きな人は砂糖を少なめにしたほうが良い。
今回は具材の形を残したまま作ったのでコンフィもどきになったが、フードプロセッサーなどで細かくすればジャムになる。
柿の他に、いちご、みかん、りんご、梅、レモン、ぶどう、あんず、いちじく、ブルーベリー、ラズベリー、ゆず、などもジャムにすることができる。
ちなみに、柑橘系を使っていて果皮が入っているものをマーマレード、フルーツの果汁のみを使ったものをゼリー、ベリー系を使っていて果肉の形が残るものはプレザーブスタイルという。
コンフィことコンフィチュールは本来、果物に砂糖を混ぜて果汁を浸出させ、浸出した果汁を煮詰めたものに果肉を漬けるのがオーソドックスな作り方である。
秋になると、柿がたくさん手に入って嬉しいのだが、自立しないくらい熟れてしまったものはジャムやコンフィもどきにしてしまうと良い。
HPを消費してMPを回復させる
身体の調子とあわせて頭の調子が悪い日が続いたためブログの更新ができなかった。
何もできなかった日々を振り返って、「毎日投稿」という自分と交わした約束が守れなかったことが、精神力を削っていく気がした。
そして、ブログの更新が日々の精神力の補強に役立っていたということを実感した。
これがあるから、「毎日小さな何かを成し遂げる」みたいな、どうでも良さそうですごく大切なことを地道にクリアしていたのかも知れない…と思った。
頭の調子が悪いとき、何が起きているのか考えてみた。
ゲームみたいに、僕の頭上にはHP(ヒットポイント)とMP(マジックポイント)が表示されているような気がした。
そして僕からはMPの表示は見えず、見えるのはHPの表示だけ。
この場合HPは体力、MPは精神力と置き換えても良いかもしれない。
何かを必要以上に頑張りすぎるとMP(精神力)がメリメリと消費されるが、それだけでは、死んでしまうほどHP(体力)が消費されるわけではないので気が付かない。
その後、MP(精神力)がからっぽになると徐々にHP(体力)が減り始める…。
見えないMPのせいで、何もしていないのにどんどんHPが減っていく。
その状況に困惑する。
だから「もっと休まなければ」と思うようになる。
だけど、このMPというやつは、ただ休んでいるだけでは回復しない。
回復させる為には積極的にHPを消費する活動にコミットする必要がある。
要するに、汗をかくこと。
僕の場合それは、身の回りの掃除や片付け、行ったことのない場所への旅行、新しい人間関係の構築、仕事へのコミットだと感じている。
そういう活動をたくさんすることで、ようやくMPが少し回復する。
ただの想像だが、なんとなくそんな感じだと思う。
手始めに「もっと休まなければ」と考えるのはやめようと思う。
そして、この記事を書き終わったら、小旅行に出かけよう。
感情はコントロールできない
僕は「ストレス発散」という言葉がどうも苦手だ。
「発散」という言葉を聞く度に、その意味をいつも掴み切れないでいる。
例えば「スポーツでストレス発散!」と言うが、家庭の悩み、病気の悩み、お金の悩みから来るストレスが、スポーツをすることで本当に発散できるだろうか…。
スポーツを楽しむその瞬間は忘れるかも知れないが、所詮一過性に過ぎない。
避雷針やアース線の様に、どこか別の場所へ受け流すことができれば良いが、人間の頭に避雷針は付いていない。
しかし、どうも周りの人たちを観察して見ると、みんな「ストレス」や「感情」をうまくコントロールしているように見える。
まるで悩みなんてないかの様に…。
ただ実際には、本当は辛いと思いながらも「感情のコントロールが出来ない人間だ」と周囲に思われない為に、努めて「気にしない様に振舞っている」にすぎない。
それは、僕らが幼いころから「感情はコントロールできなければならない」という思い込みをして来たからだと思う。
でも、わかったのは感情はコントロールできるものではない…ということ。
遅ればせながら30代になってようやく分かった。
不愉快な感情を無視しようとしたり、無理になくそうとすると余計に意識が強まる。
ここで問題なのは、不愉快な感情と、間違った処理による思い込みだ。
自分が感じる感情と思い込みを分解してみると、前者も後者も構造は同じで、例えば「自分」という存在に「意味」が紐づいていて、その意味は刺激によって変化するようだ。
悩ましいが、分解はできてもその機能についてはよくわからない。
できれば詳細な仕様書が欲しい。
感情はコントロールできなくても、自分と思考を切り離し、思考を一歩下がって観察することはできるはずだ。
例えば、「僕は何をやってもダメだ!」という思考と、「『僕は何をやってもダメなやつだ!』という思考をした。」という思考のは別物である。
この辺がうまく腑に落ちると役に立ちそうだが、まだ良い方法が見つからない。
このままでは気持ち悪いので、家に帰ったらサイニーで論文を検索しまくって読み漁ろうと思う。