30歳過ぎて気づいたおもいやり

今日の話題は、「30過ぎてようやく”おもいやり”って何なのかについて考えた」…という、とりとめもないお話です。もちろんこれは、「命題:おもいやりとは何か?~おもいやりの概念について~」みたいな大それた話ではなく、もっともっとミクロなお話です。

配慮できるひとが配慮する

ことの発端はつい数ヶ月前のことですが、人生の先輩のようなひとに人生相談をしていたときに、僕が友人にしていた行動が「相手にとって束縛になっているのではないか?」という指摘を受けたのです。

その内容とは、次にいつ会えるか確認する方法として、「会える日がわかったら教えてね」と伝えていたことです。それだけ聞くと、それのどこが「束縛」に当たるのかわからなかったのですが、よく話を聞いてみると、こういうことでした。

ひとによってはその日の体調やメンタルに合わせてその時々の日程を決めたい場合もあって、何週間も後の休日のスケジュールを事前に決め込んでしまいたくないと思っているひともいる。そして、そう思ってはいても「自分勝手だ」と批判されることを恐れ、言い出せないままストレスを抱えている場合もあるんだと・・・。

その意見を初めて聞いたときは「それは少し大袈裟ではないか?」と思ったりもしましたが、確かにじぶんも”うつ”のときはそういうシーンもあったし、相手がどういうひとかに関わらず、いま配慮する余裕がじぶんにあるなら、こちらが積極的に配慮の幅を広くもつことも「おもいやり」のひとつなのかもしれないと思い始めました。

その上で、どのような問いかけならば相手の負担に配慮できるだろうかと考えてみた結果、「日曜日は、家でテキトーに用事を済ませているので、気が向いたら声をかけてね」くらいのゆるさがちょうど良いのかもしれないと考えたわけです。

声が掛かったら対応すれば良いし、1日声が掛からなかった場合でも自分の用事を済ませていれば良いので、相手は事前に決められた日程に悩まされることがなく、僕もそわそわしながら待っている必要はないのです。

ここで重要なのは「僕はそわそわしながら待っているわけではない」というところで、「ひとを待たせている」といプレッシャーを相手に与えないことで、じぶんのペースで判断して行動することができるだろうし、「必要なら声を掛けても良いし、不要なら声を掛けなければ良い」という条件を揃えることで、もし相手が「今日は疲れているから家で寝ていたい」と思った場合でも、わざわざ「お断りの連絡」を入れる必要がないのです。

相手が「お断りの連絡」をして来なかったとしても、僕は家でじぶんの用事を済ませているだけですし、必要ならいつでも声を掛けて良いわけなので、お断りの連絡の有無に関わらず、お互いの意思がすれ違うことがないと考えました。

もちろんこれは、万人に受け入れられる考え方ではないと思いますし、それが良いとか悪いとか言うつもりもありませんが、純粋に「配慮できる余地があるなら配慮したい」と考えていたので、この方法が正しいかどうかは別として、「自分にできることがひとつ増えてよかったな」と思ったわけです。

この話を聞いてから、僕はしばしば「おもいやり」とは何なのだろうと思うようになりました。そして、そもそも僕はおもいやりのある人間なのだろうかと考えるようになりました。

無関心と寛容性

僕は割と他人に対して「寛容」なのですが、つい他人を甘やかし過ぎてしまうくらいのゆるい性格をしているので、子どものころから「自分は優しい人間だ」と思いこんできた節があります。

しかし、そもそも僕が持っているこの「寛容性」というものは「無関心」からくるものだということに薄々気が付いていました。そして、その「無関心」のおかげで、長時間ひとの話を聞いていても”しんどくならない”のだろうなと思ったりしています。現実問題として、ひとの話を聞き続けるという行為は、他人の意見や感情に曝され続けることが多いので「感情移入し過ぎるひと」や「聞いたことを忘れることができないひと」には辛いことだろうなと思ったりします。

僕は無意識に、「他人に起きた物語」と、「じぶんに起きた物語」を、「無関心というフィルター」を通して頭の中で自然に分離しているのだと思います。そして、好都合なことに、それがどんなに恐ろしい物語だったとしても、ほとんど感情移入することがありません。また、あんまり記憶力がよくないのが幸いしてか、大事なこと以外は大抵忘れてしまいます。

このように僕は、他人の物語に没入できない存在なので、あくまでもそれを「対岸の火事」のように見ているんだろうなと思いました。そして、根本的にはこの寛容性は、「=やさしさ」ではないんじゃなかろうかと思ったわけです。

僕が持っている「寛容性」は、あくまでも「無関心」から派生したものだと、これまでの認識を改めることができたことは、遅ればせながら成長できてよかったなぁ…と思う反面、僕の持っている「寛容性」が「やさしさ」でないことと、僕に「おもいやり」があるかどうか?ということは、また別の話しだとも思うわけです。

そこで、僕の中に「おもいやり」のようなものの断片はあるのだろうかと、少し考えてみました。

「おもいやり」のようなもの

思い返してみると、日常生活の中で結構気を付けていることがあって、それは「相手の思考を拘束するような問いかけはしない」ということだったりします。「拘束しない」ってどういうことかというと、不要不急の話題について、考えさせる必要のないときに、いちいち考えないと答えられないような問いかけはしないということです。

最もわかりやすい例としては、「今、なにしてる?」という問いかけだと思います。

「今、何してる?」って聞かれたら、相手はまず状況を整理して説明しなければならないし、もし相手が忙しいひとだったとしたら、そんな手間を取らせてまで聞くことじゃないと思ったりするわけです。もし時間があって何もしていなかったとしても、この後に何かしらの対応をお願した場合、僕のお願いを聞くための時間を担保しなければならないというメンタルロックが掛かる気がしています。要するに、「今、なにしてる?」という問いかけは、場合によっては相手にとってとても「ダルい」ということです。

もし聞くとしたら、特に相手が今の状況を説明する必要がなく、いつ返事を返しても不自然にならないような問いかけを心がけます。例えば、X(旧Twitter)で見つけたおもしろいポストを共有してみたり、散歩中に撮ったおもしろい写真を共有したりして、今この瞬間において、相手にも自分にも関係のない要素を切り口にして会話を始めるという方法を取ったりします。とても回りくどいように思うかも知れませんが、相手にはなにも説明を求めていないし、緊急性のある内容ではないことも説明不要で自然と伝わるようなので、これが僕のお気に入りの方法だったりします。

もうひとつ僕が気を付けていることは「他人に期待をしない」ということです。

これは自分が気を付けていれば済む話ではありますが、ひとは相手に何かしらの「期待」をしたときは、「期待に応えてほしい」と考えるものだと思うのです。なので、じぶんが見返りを求めてしまわないように、「いつでもひとには期待をしないでおこう」という気持ちでいることにしています。例えば待ちびとが待ち合わせの時間に遅れて来たとしても、そもそも「時間を守ること」を期待をしていなければ、「どうして時間が守れないんだ!」と怒ったりする必要もないからです。むしろ空いた時間に本を読んだりして、好きな過ごし方ができてラッキーだなと思うことにしています(なかなかこの境地に至るまでには時間がかかりましたが)。

そして、これは最近気が付いて強く思うようになったことなのですが、「誰かのために何かしたい」と思ったときに、「したいと思ったから”勝手に”した」ということを忘れないようにすることです。例えば、なにか悩んでいる友人のためにアドバイスをしたいと思ったときに、友人がアドバイスをちっとも聞いてくれなかったとして、アドバイスを聞かなかったことが原因で失敗してしまったとしても、求められれば僕はまた、必要なアドバイスをします。そして、そんな失敗が何度も続いたとして、僕はただ「したいと思ったことをしていただけ」なので、アドバイスを聞かなかった友人を責めたりする必要はありませんし、「あんなにアドバイスしてあげたのに!」と思う必要もないからです。

ここまで考えてみると、少なくとも僕にも「おもいやり」を実現するための素材があるようで、「おもいやり」を実現したいという思いも人並み以上にあるようです。

30歳を過ぎてから思うことは、「これって相手のためだよね」とか「こんなことでひとは傷づかない」と思っていたことが、案外じぶんのための独りよがりだったり、無意識にひとを傷つけてしまうことに気が付かないまま過ごしているなぁと反省することが多くて、この歳になってもまだ「おもいやり」と言われるものの正体が掴み切れていないなと考えたわけです。

落としどころのない、とりとめのない文章になってしまいましたが、今日のところはとりあえず、僕にはまだ素直に反省する余地があるということと、「おもいやり」と言われているものの正体なんて、まだまだ自分にはわからないから探求の余地があるということと、そんな不毛とも思えるような哲学に、真正面から向き合いたいと思えていることが、僕にとっては少しホッとした出来事だった、というお話でした。

おわりに

前回の投稿は、はじめての投稿ということもあり、とても苦しい文章になってしまった気がしています。数年前、Wordpressでうつヌケブログ書いてたこともありましたが、その頃から思っていましたが、相変わらず文才がないですね・・・。でも、こんな初心者の下手くそな文章を読んでくださったひとが数名いらっしゃったようで、ちょっぴり感動してしまいました。何を書いてもどうせ下手くそなことには変わりはないのだし、しばらくは「毎日続けること」だけを意識して書いていこうと思っています。続けていれば練習にもなるだろうし、そのうち上手くなるかもしれない( ゚Д゚)!!

ご清覧いただきありがとうございました。

以上、また明日!