レンタル都合の良いひと
「君は居ても居なくても良い、他人にとって都合の良いだけの人だ」と言われたことがある。確かにその通りだと、僕は思った。
僕は自分の為にする努力より、他人の為にする努力の方が性にあっている。
そのため、自分も甘やかすが、つい他人も甘やかしてしまう。
人に喜んで貰えることなら、比較的なんでもする。
時間も労力も費やすが、そうすることは苦でない。
それに見合った見返りがなくても、全く問題ない。
ただ純粋に、人の役に立つことが好きなのだろう。
そうすることで、自分が「不要な人間ではない」ということを確認しているのかも知れない。それが、「他人にとって都合の良いだけの人」と言われる所以だろう。
そして、それらの「都合」に「対価」は不要とあらば、時と状況に関わらず、僕の行動は変わらない。悪い言い方をすれば「対価不要のいつでも”良い人”*1」と言い換えることもできる。
居ても居なくても良いとは、利用価値がある時は役に立ち、利用価値が無くなればいつでも手放すことができるということ。つまり、僕の[convenientな部分]と[temporaryな部分]の、2つの側面を表しているのだろう。
ただ、利用価値がなくなると同時に、自分が「不要な人間ではない」という存在意義を証明できなくなってしまう。[temporary]なだけでは、虚しさが残る。
それが、僕が常に孤独を感じる理由なのだろう。
甘やかすだけ甘やかして、甘やかされるに任せてダメになっていく人を見ると幻滅する。すると、甘やかす価値が無くなる。甘やかす価値が無くなった時、僕は離れて行く。
甘やかすこと自体が
僕にとっての「対価」そのものなのかも知れない。
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そもそも「都合が良い」とは何だろうと考えてみたりする。
大抵の場合それは、物事の兼ね合いがうまく行く時に使われるが、人に使う場合は、皮肉的な意味合いになる言葉でもある。
人間関係は「都合」の固まりだとする考え方もあれば、「都合」は不要だとする考え方もあるようだ。
「都合が良い」から一緒にいるというのも理解はできるし、「都合」がなくとも一緒にいるというのも理解はできる。
「都合」には、影響を及ぼすとか、繰り合わせるとか、調整/融通するとかいう意味もある。
副詞的に用いて「合計」とする場合もある*2。
要するに「都合」とは、そういうの事柄の集合体である。
そこまで考えてみると「都合が良い」とは、高次元的でもあり、非常に高度な状態のような気もする。
こういうのを「孤高」というのだろうか(笑)
全く望んでないんだけどな…。
大切に読みたくなるブログ記事を書くひと
他人の書いたブログ記事って、真剣に読んだりしないと思うんです。というか、僕もずっと、そう思ってました。
でも、このブログを書き始めてすぐの頃に僕が読み始めたブログの中に、「大切に読みたい!」「じっくり読みたい!」「次が楽しみ!」って思う記事を書く方がいて、素敵だなと思っているんです。
時々、自分の書いている記事と、その方が書いている記事は、いったい何が違うんだろうと比較して考えたりするんですが、わかりません。人生経験の違い…なのかも知れないですね。
僕は「人を惹きつける文章の書き方5選!」みたいな胡散臭い広告が大嫌いです。そういう本は読まないし、そういう話も聞きません。
文章の書き方を勉強したのは、小中高の義務教育と、大学のレポートや卒論の時くらいなもので、これと言って何か技術力があるわけじゃない。
ただ、本を読むのは好きなので、昔からいろんなジャンルの本を読んで来ました。
それが文章を書くことに何か繋がったのかどうかはわかりません。
あと、これはむしろマイナス要素になりそうですが、学部生時代に社会学古典を死ぬほど読まされた経験があって、あれは…むしろ日本語がおかしくなったきっかけでもあるんですよね…(中国人の先生に「あなたの日本語はおかしい」と言われる始末)。
今の自分の書き方が気に入らないとか、直さなければならないとまでは思わないですが、何か不十分であることは間違いないです。
それが何か突き止めたいとは思います。
直すかどうかは、その時に考えようと思っています。
将来の目標と言えるのかわかりませんが、いずれにしても、「大切に読みたくなるブログ記事」が書ける人になりたいなと思いました。
そんなことを思うようになってからは、自分が読者になった方の記事は新しい記事がUPされる度に、一旦すべて読むことにしているんです(少しづつ購読数が増えて来たので、ちょっと大変になって来ましたが…)。
普段は新しいテーマ探しのためにやっていたりするんですが、テーマよりも表現の方法に着目してみると本当に面白いですね。
「こんな表現の仕方、初めて見た!」って記事を見つけると、飛び上がるほどうれしくなってしまいます。
最近は、書くよりむしろ読む派になりつつありますね。
なまけものの言い訳です。
デザインなんて、どうでも良くない?
普段着ている服にはそこまで「こだわり」はないんですが、自分の制作物の「デザイン」とか「方向性」って、作ったり壊したりしながら、長い時間を掛けて悩むんです。
でも、それをやってると大抵の場合、「一旦、デザインなんて、どうでも良くない?」とか「拘らず作っておいて、あとから修正すれば良いよ」って、言われることが多いので、その時は「そうだね」って思って従うんです。
でも、いつも後悔するんですよね…。
僕は完璧なものを作ろうとしているんじゃなくて、初速のゆっくりな内に、自分の中でこれだったら「気持ち悪くない」みたいなレベルのところまで持って行きたいだけなんです。
ただ、そのハードルがちょっとだけ高いのと、少し右往左往しながら、時には壊してやり直したりしたいので時間が掛かるんです。
でも、その右往左往する工程を挟まないと、いつか高速で走ってる途中で方向性がブレて壁に激突する。
すると、ゴールまで走り切ることができなくなってしまうんです。
きっとあの「気持ち悪い」感覚は、コースを走り切るための「道路整備」が頭の中でできていない状態なんだと思います。
だから、スタートしてから本格的に走り出すまでが非常にゆっくりなのは本当に申し訳ないと思いつつ、周りに迷惑を掛けることにはなるけれど、「許してほしい」って思っちゃうんですよね。
このブログを立ち上げるとき、「一旦作ってみて、後から方向性を修正しよう」という感じで初めてしまったので、何らかの修正を打たない限り、このまま走り切ることはできないだろうなと確信しています。
走りながら方向性を修正することも可能なのかも知れないけど、苦手なんですよね…。
ぶっ壊したくなる衝動を抑えながら書いています。
やはり、何か始める前に、自分より先にロードローラーを走らせて置く必要があったんですよね…。
そうやって、人の意見に流されるのは、自分に自信がないからなんでしょうね…。
でも、最終的に、自分でやるなら自分のやり方が正解だってわかっているんだから、どんな時も人の意見に流されずに毅然としていればいいのに。
ブログや制作物に限らず、人生も、挑戦と失敗を繰り返しながら、自分だけの成功ルールを身体で覚えて行くしかないのでしょうか。
酸っぱい葡萄
誰かに優しくされたりすると、「なんの見返りもなく自分なんかのために優しくしてくれるはずがない」って考えてしまう悪いクセがあるんです。
こういうこと言うとすぐに「自己肯定感が低い」とか言われるんですが、決してそういうわけでもないんです。
自己肯定感がなんなのかよくわかっていない節はあるけど、自分の意思決定に自信がないわけじゃないし、ただのクセなんですよ。
褒めるなら、継続的に、そしてガンガン褒めてもらわないと実感がわかなくて信じられない。
多分、実感が湧くためのセンサーみたいなものがぶっ壊れているのかも知れないですね。
誰かにはやく交換してもらいたいです。
狐が取れなかったのは本当に酸っぱい葡萄?
この場合の葡萄は自分自信に対する比喩です。
狐の気持ちもわかるし、葡萄の気持ちもわかります。
イソップ寓話より。
続かないと思うんです、このブログ
今まで続いたのはなんだろうって考えると、ほとんど中途半端のまま終わってるなって思うんですよね。
学生の頃からやってた水泳とか、大人になって始めた英語の勉強とか、昔好きだったギターとか、カメラとか…。
いろんな趣味や習い事をしてきたけど、なにひとつ身になったことなんてないんですよね。
ものすごい時間とお金を浪費したような気がします。もったいない。何か始めるのも考え物ですね。
お金を掛けたら続けられるっていうあれ、嘘ですね。お金を掛けたものから順番にやらなくなって行きましたからね。
いま手元に残って継続していることなんてあるんだろうか…。
ただ、唯一、人間関係だけは長く続く方だとは思うんです。
それは頭が悪いから「嫌だな」って思ったことを忘れちゃうからだと思うんです。
だから、これは継続って言えるのかちょっとよくわからない。
このブログについても、僕はすぐに飽きちゃうって思う…というか、思うことにしてるんです。
なんかそうしていたら、「そんなことないよ」って言いたい自分が出てきて、なんだかんだ意地で続けるような気がしているので。
逆張りの暗示みたいなものです。
だから、”続かないと思うんです、このブログ”。
来週もがんばろう。
マイナス側に振り切れる日
なにか調子が悪くて、そのあと少し調子が良くなって来た時に、マイナス側からプラス側に、一気に振り切れてしまうときがあるんです。
そういう時は大抵「無敵モード」みたいになっているので、常識の範囲内ではあるけど、この世界から「怖いもの」が一瞬だけ無くなるんです。
人と話していると楽しく感じたり、一人で出かけることができたり、ちょっとだけ大きな買い物をしてみたりします。
でも、翌日には必ずと言って良いほど「死にたくなる」んですよね。なんなんですかねこれ。もうずっと昔からなんです。
今日はこころの調子がプラス側に振り切れてる日なので、友人と食事にも行ったし、ブログの記事もいくつか書けたし、でも、明日はきっと死にたくなる。それはもう、わかってるんです。
わかってるからって、何か準備したりできるわけじゃないし、何か準備をしようとも思わないけど、だるいなとは思う。
原因と結果が繋がっているわけじゃないですし、天気予報みたいなものだなと思っています。雨なら雨で仕方ない…みたいなものかと。
30代、タイプかどうかは関係ない
20代の頃の恋愛って、「タイプのひと」にこだわっていたような気がするんです。でも、30代になってみて、そういうのがどうでもよくなって来たと思うんです。
可愛いとか美人とか、そういうのはさ、きっとこの先10年も20年もたったら結局みんな歳を重ねて変わっていく。自分が歳をとったことを実感した頃に、少しづつそんな風に考えるようになってきたんです。
それにね、タイプじゃなくても、好きになったらかわいい。
今のパートナー(Aさん)とはもう長い付き合いになるんだけど、出会ったばかりの頃はそんなに素敵だと思ったことなくて、正直タイプとかじゃないんだろうなって思うんですよね…。
そんなことよりも二人の関係性とか、一緒にいるときの距離感とか、積み上げてきたいろいろが大切だったんだとは思います。
そこまで思ったことなかったのに、いつのまにか「かけがえのない存在」になっちゃって。今では一番支えたい人になったんですよね。
人生って思ったよりずっと長いし、人には話さないこともたくさんあるけど、なんとなく知っていてくれることとか、心のどっかで理解してくれてることとか、そういうのがある安心感が、ふとした瞬間にとてもありがたいなって思うんですよね。
だから、何にもしてくれなくて良くて、ただ存在が嬉しいというか、生きていてくれてありがとうって思うだけなんです。
もうそれって最強だと思うんですよね…。
まあ、向こうからしたら、何でもやってくれる便利な存在なだけかも知れないし、ちゃんと大切に思ってくれているのかも知れないし、言わないからあんまりわかんないけど。
だから、パートナーが自分のことタイプじゃないって悩んでる人に言いたい。そんなの最終的に関係ない。だから大丈夫。考え方次第だと思うんです。
それと、タイプじゃないのに一緒にいてくれる人がいるってことは、そんなの関係ないくらい、きっと素敵な人なんでしょうね。