軽量化したい、楽がしたい

持ち物の軽量化をしたいんです。

今まで移動のたびに15インチのパソコンを抱えて出かけていたんですが、重いし嵩張るしで本当に不便でした。

確かに、これまでは比較的細かい作業をする事が多かったので大きな画面が必要でしたが、今はブログの更新とクライエントカルテ書くだけなので必要ないんです。

普段使っていない格安のandroidタブレットがあったので、これを久しぶりに押し入れから引っ張りだして、折り畳みキーボードを接続したらあら不思議、小さいパソコンじゃないか!

ノートPC使うとき、ノートPCに付いてるキーボード以外を使うことも多くて、例えば飽きたら外付けのメカニカルキーボードを使ったり、夜は静音キーボードに切り替えたりと、沼にハマりにハマって生きて来たんですよね…。

いま使っている折り畳みキーボードは、ヒンジの影響でキー配列にブレが出たりしていないし、打った時の触感もまあまあ悪くないです。でも、欲を言えば「enter」キーは、ストレートタイプじゃなくて、大小の四角を組み合わせたみたいな大き目のタイプのやつがよかったですね。

なんにしても、これから移動のために15インチのパソコンを持ち歩かなくても良いって思ったら、飛び跳ねるほどうれしいです。

SNSは辞めた、というお話

メインで使っていたX(旧Twitter)のアカウントを削除したんです。削除するまで何ヶ月も悩んだのに、「削除ボタン」を押したその瞬間は、なんの感情も湧かなかった。

削除するまではそこに至る経緯とかがあったんですが、今の自分にとっては「どうでもいい」って感じていて、何にそんなに悩んでいたのかはっきり思い出せないんですよね。

ちょっと思い出しながら書いてみますが、「辞めたほうがいい」って思ったのは数年前で、理由はシンプルに「傷つくから」だった気がします。

でも、これまで集めたフォロワーとか、もらった「いいね」の数とか、自己主張の場所とか、そういうものが、自分を形作っているって錯覚して、なんの実態もないSNSが、自分にとってとても大切なものだって勘違いしたまま生きて来たんだと思うんです。

確かに、やっててよかったと思うことはあった。自分の位置づけを確認したり、気になるあの人を追いかけたり、「生きてますよ」っていう生存報告とか、普段は連絡しない遠くの友達とか、なんかの発信の場所とか、いろいろ意味はあったと思うんです。

直接連絡しなくても、なんとなく伝わるし、伝えようとする努力が必要ないっていう手軽さもありましたからね。

でも、人によっていろいろだとは思うけど、SNSって基本的に「見せたい自分」を切り取って発信する場所だと思っていて、何も考えないでタイムラインを眺めていると「みんな人生充実していて楽しそうだな」と思っちゃうんですよね。他人と自分を比較して勝手に傷ついて。本当はそんなことないのに。

キラキラしたあの人も、辛いことなんて無さそうなこの人も、毎日頑張ってるその人も、苦しんでるよ。だって人間なんだもん。

汚い自分や恥ずかしい自分を、わざわざ苦しみながら投稿したりしない。必然的に、「キラキラ」の集合体(見せたい自分の集合体)が形作られていくというわけで。

そして思ったのは、僕が興味のある他人と、僕に興味のある他人が、いったいどれだけいるんだって話で…。

あのね、いないよ。

みんな自分の人生を生きるので精いっぱいなのに、他人の「キラキラ」を追いかけている暇なんてないし、「認めてほしい!」「褒めてほしい!」「慰めてほしい!」の集合体に興味なんてないよ。芸能人じゃあるまいし…。

そういうのは、大切な誰かにやってもらおう。大切な誰かのためにやってあげようって、そう思ったんですよね…。

だから辞めました。スッキリしました。以上!

これからは「あ、ごめん、僕、SNSやってないんだよね」っていうちょっと意識高い系の人が言うみたいな憧れの言葉を言うことができるなぁ。

まぁ、SNS辞めてまだ1日なので、このあとどんな効果があるとか、どんなことで苦しむとかはまだ分からないけど、自分で実験してるつもりになって、気が付いたことがあったら書き留めておこうかなと思います。

ちなみにブログの位置づけはSNSとは分けているので、まぁこれもSNSのうちの一つなのかも知れないけど、これはこれ、それはそれということで。

調子が悪いのがデフォルトです

今日は調子が悪い日です。

心配なことがあって、落ち込んで、なかなか立ち直れない。そんな日もありますよね…。

考えごとがあると、考えてることをGoogleキープに書きだすようにしているんですが、最近は「漠然とした悩み」の状態から「問題解決のための思考」に進まなくて、なにも書くことができなかった。

書いたからって解決できるわけでもないんですが、不安のレベルを下げるのには有効なんですよね。気休め程度ですけど。

ほんと数ヶ月ぶりにGoogleキープを開きました。少し書いて、疲れたら横になって、また書いて。

自分のためのメモなので、人に見せることは無いし、内容なんてめちゃくちゃです。

でも、今回は失敗…またあした。

たまにはそういう日もあります。

台風の目は無風だったか?

水曜日の深夜3時、昨日の一件からそわそわしてしまって眠れなくて、なんとなくこのブログを書き始めてしまいました。

いま少し、僕がまだ会社員をやっていた頃のことを思い出していました。

当時僕は、某食品メーカーで品質保証の仕事をしていました。しかし、最終的には「うつ病」を患い休職し、回復して復帰するも再発し、状況が好転することなく休職満了、それを理由に自然退職という形になったんです。

正直、あの頃のことを思い出すと今でも吐き気がこみあげて来ますが、「うつヌケ経験あり」とプロフィールに書いている以上は、本当にザックリですが、エピソードとして残して置こうと思います。


あの頃、僕が働いていた職場には「スーパーパワハラ部長(以下、P部長)」がいました。P部長は現場の総監督のような立場の人で、社内外においてとても力のある存在でした。

製造業では”あるある”ですが、品質保証の担当者は、現場から恨まれる存在であることが多いです。なぜなら我々は、現場にブレーキを掛ける存在だからです。P部長も例外ではなく、品質保証部を目の敵にしていました。

僕が品質保証の部署に着任したのは26歳の頃で、P部長の新人いじめは着任初日からはじまりました。

はじめはP部長の側近であるコバンザメ課長を送り付けてきて、初日から特に緊急性のない依頼を大量に投げつけられ、夜遅くまで広い現場の雑巾がけを一人でやらされ、使い方も分からない危険な機械の洗浄を、手元も見えない消灯後の真っ暗な現場でやらされたりしていました。毎日とはいかないまでも、最低でも週に3日は、そんな感じでした。

もちろんそれらは本来であれば、すべて管轄外の仕事です。上司にも相談はしましたが、取り合ってもらえませんでした。

今思えば、上司は上司で、P部長が怖かったんだと思います。他の部署の人たちも、とてもじゃないけど逆らえるような状況ではありませんでした。

でも、一人で黙々と作業をするだけの仕事なら、心を殺して無心になれば、何とかやり切れるものです。時には深夜まで掛かることもありましたが、その分残業代はきっちり頂けるので「まぁ、しかたない、そういうものだ」と飲み込んでいました。

僕は入社して間もなかったこともあり、「会社とはそういうものだ」と納得するしかなかったですし、それでもなんとか時間を捻出しながら、本来の業務ともうまく両立していたと思います。

しかしP部長にとっては、そんな僕の前向きな姿勢が気に入らなかったらしく、余計に火をつける結果となってしまったようです。

品質保証部に着任してから2年が経ったころ、P部長は時折、品証フロアまで駆け上がって来ては、意味の分からないことを執拗に怒鳴り散らすようになり、言いたいことを言い終わるとすぐに、現場の職員が全員聞いている無線機を通して、事実無根の悪口を延々と垂れ流すようになりました。

それからはほぼ毎日、P部長による”演説”を頭越しに浴びせかけられながら、別の部署の管理職からも「仕事にならんからなんとかしろ」と詰められて、僕はいつの間にか円形脱毛症になり、左の耳の上がすっかり禿げ上がってしまいました。

そんなクソみたいな毎日にも慣れ、円形脱毛症も治りかけたある日、僕はある方法を使って反撃を開始したのでした。

P部長は、毎月の定例会のあと、タバコを吸いに喫煙所に降りて来ます。その頃僕は議事録担当をしていたこともあり、P部長にくっついていって、聞き漏らした箇所の確認をするようになったんです…それはもう、執拗に。

もちろん最初のころは「そんなことも分からないなら辞めちまえ」とか「本当に学校を出ているのか」とか、時には「死ねよ」などと、人格否定も甚だしい悪口を浴びせかけられましたが、やめませんでした。

定例会以外にも、現場へのささいな連絡や、新しいプロジェクト、新製品に関する情報や、現場への言いずらい提案など、本来ならP部長へ直接連絡する必要のないものまで、さまざまなシーンで語り掛けました。台風の目は無風。”895hPa”のP部長も、とにかく懐に潜り込むつもりしまえば無風だと信じて、その強風に抗ってみることにしたんです。

実は昔、介護のアルバイトをしていた頃のことを思い出したんです。認知症を患っており、介助時にどうしても暴れてしまう利用者さんに落ち着いて頂くために、肩などに優しく触れながらこちらの体温を感じてもらい、相手の目をまっすぐに見ながらキラキラした視線を送り、落ち着いた声色でゆっくり話しかけるという作戦。結構好評だったんです。

もちろん、P部長の肩に手を置くようなことはしませんでしたが、介護のアルバイトをしていた時と同様に、P部長の真っ黒い瞳の中をまっすぐに見つめながらキラキラした視線を送り続けました。

数ヶ月の間、人格否定も甚だしい罵声に耐えながら、この作戦を決行し続けました。時にはP部長の家庭のことや、P部長が大切にしているペットの犬の話、お子さんの話、とにかく雑談でも何でも良いので話掛け続け続けたんです。

その結果、P部長からの”僕へ”のパワハラは、ある日突然、”熱帯低気圧”に変わりました…。


それは、品証に着任してから5年目のことで、キラキラの視線の成果もあってか、P部長は僕に絶大な信頼を置いてくれるようになりました。

それからの毎日は、社内で僕だけがP部長からのパワハラを受けないという恩典を手に入れました。このことは本当に幸運だったと思っています。しかし、P部長のパワハラから逃れることができたのは僕だけであり、他の社員へのパワハラが無くなったわけではありません。自分の努力の成果とはいえ、とても申し訳ない気持ちもありました。

しかし、周りの管理職の方や社員の方たちも、P部長には直接言いずらいようなことを「変わりに言ってくれないか」と頼まれるようになり、様々な部署で仕事の効率化が図れたそうなので、それはそれで、持ちつ持たれつ、うまく仕組みが回っていたのかも知れません。まぁ、そもそもまずは、P部長のパワハラをなんとかしろよとは思いましたが…。


それからしばらくして、品質保証部の管理職に就いた僕は、パワハラの無くなった職場でのびのびと仕事をしていました。社内の雰囲気も落ち着いて来たようで、P部長の周囲へのパワハラも、自然と”小康状態”になって来ました。

そんな矢先、社内で大きな事故が発生し、回収騒ぎとなってしまったのでした。

日夜、東京の本社から幹部社員がゾロゾロとやって来て、「帳票をだせ」「規定を説明しろ」と朝から晩まで尋問の嵐。当然ですが、現場の品質に関する責任者だった僕は、矢面に立たされることになりました。

それからのことは必死だったのであまり覚えていないのですが、とにかく現場に改善命令を出したり、矢継ぎ早にルールを変更したり、管理表の様式を総入れ替えしたりとバタバタしていて家に帰るのは月に数日と言ったところでした。現場には事務所以外のいたるところにカメラが設置され、24時間365日監視されるようになりました。

ある朝、会社の門の前で、パートさんが空を見上げて立ち尽くしているのを見つけ、声を掛けました。

「会社に入ると、空が見えなくなっちゃうから…よく見ておこうと思って…。」と悲しそうにパートさんが言うんです。

僕はその時、回収騒ぎの波に飲まれて、現場の気持ちが置き去りになっていることに気づかされました。

いろいろ手を尽くしましたが、P部長のパワハラの再燃と、厳しすぎる管理に現場が疲弊し、社員やパート含め、1ヶ月に40人が自主退職する事態となってしまいました。

P部長は相変わらず、品証フロアにやってきては、僕以外の社員にパワハラをする様になりました。時には、あの頃の様に、大声で怒鳴り散らしたり、人格否定も甚だしい罵声を浴びせかけるなど、それは酷いものでした。僕は、密かに怯えていました。いつかは自分もあの頃に戻るんじゃないかと。ずっと、そのことばかり考えるようになりました。

社内は、本社とP部長の”迷走台風”で総荒れでしたが、通常の仕事もスケジュール通りこなさなければなりません。特に大きなイベントは、秋の新製品の制作試験でした。

少ない人数の中、社員総出で手分けして進めましたが、何度試験を繰り返しても製造ラインが新規製品の物性に合わず、失敗を繰り返していました。その傍らで、東京本社からの尋問も、P部長の周囲へのパワハラも、変わらず続いていました。

そんなある日、新規製品の製造試験中、僕は過労で倒れました。身体も心もボロボロでした。

倒れたとき、隣に上司が居ましたが、見て見ぬフリをしたそうです。大ごとにしたくなかったのと、責任を被りたくなかったのでしょう。きっと、何事もなく終わってくれと、心の中で祈っていたのではないでしょうか。

代わりに駆けつけてくれたのは、現場の若い社員さんでした。その後、救急車で運ばれ、後日会社に戻ると、会議室に通されました。

そこからはあっという間で、管理職を下ろされたり、休職したり。少し休んだら復職を急いでくれと言われ、現場に戻り、再発し…の繰り返し。最終的には、8月の暑い時期に、物置小屋のようなエアコンもない小部屋に異動という形で押し込められ、自主退職を促されました。

思い出すだけで吐き気がするので文章がブレてますが、ザックリ言うと大体そんな感じです。僕にも落ち度はあるんだと思います。一方的に会社が悪いとは、今でも思っていないし、戻れるものなら、あの職場に戻りたいとまで思うくらいです。不思議ですね。

振り返ってみると、僕が「うつ」になった原因というのは、正直よくわからないです。P部長のパワハラ…といえばそうなんでしょうが、本当は、管理職を下ろされたとき「自分の居場所がなくなった」「必要の無い人間の烙印を押された」という感覚があったのが、一番しんどかったことなのかもしれません。

やはり、どんな環境においても「誰かに必要とされている実感」というのは、精神衛生上、とても大切なことなんだなと思いました。

いま僕は誰かに必要とされているんでしょうか…。
ちょっとよくわからないですね。

伝えることは大切でもトゲのある藪

昨日の記事から一夜あけて、Aさんに「嫌だったこと」を伝えたあとに「ごめん」とだけ連絡がありました。

実はそれから、なんて返事をしてたらいいものかずっと考えていて。考えているうちに2日も経過してしまいました。

「僕もごめんね」って言えばいいだけなのに、こんな簡単なことがどうしてもできない。

このまま連絡が無かったらどうしようとか思うくせに、下手なプライドが邪魔をしているのでしょうか。何も言い出せないんですよね。


会社員をやっていた頃、社風なのか「言わないことで成功する」みたいな空気があった気がします。

さまざまな部署に挟まれる中で、自分の意思を素直に表明してしまうことが、課員に迷惑を掛ける結果に繋がってしまったり、将来の方向性を勝手に決定づけられてしまったりするリスクを考慮していたのだと思います。

今でも、自分の気持ちのようなものを素直に表現することに抵抗があります。そもそも、自分でも自分の気持ちがよく理解できていないのに、思いついた言葉を口にして、誰かに勝手に判断されるのが怖かったからです。

昨日の記事では、「気持ちを伝えることの大切さ」みたいなことを書きましたが、正直、納得していないです。気持ちを伝えることが必ずしも正しいわけじゃないときだってある。

でも、そうやって言わないことでリスクを避けようとしている自分を振り返ってみると、言わないことでトラブルに巻き込まれているような気がしないでもない。

そこで気が付いたのは、気持ちを表明することによるリスクを考慮している自分というのは、ある意味内向きの思考というか、「自分勝手な自分+自分の意思を無視する自分モード」なのかもしれないと考えました。

自分の保身に走っていて、相手の目線に立って考えることができていない状態と、自分の目線を見失っている状態の両側面があるような気がしています。

思ったけど言わなかったことは、大抵の場合伝わらないので相手にとって無かったことになるわけですが、ときどきそれが自分の中でも無かったことに変換されているような気がします。

論理としては処理されるのでしょうが、感情だけは置き去りにされてしまいます。だから、モヤモヤした気持ちだけが残って、あとは無かったことになる。

でも、感情だけは時間が経過してもなかなか処理されないし、心の中でリプレイが繰り返されてどんどん大きくなって行く気がするんです。

そして最後は、爆発する。

ここまで書いていて気が付きました…。やっぱり、思ったことは言葉にして伝えるべきだ。でもきっとまた、同じことでぐるぐる悩む日が来るんだろうな。

でも、そのぐるぐるが、いつか誰かの役に立てたらそれで良いような気もします。

伝えることは大切でもトンネル

先週の土曜日、くだらないことがきっかけでパートナー(仮にAさんとします)と険悪な空気になりまして、その時のことを少し書いてみようと思います。

週末、僕とAさんは二人で出かけることが多くて、土曜日の夜も僕の運転で「長野までドライブしよう」ということになりました。

特にこれといった目的地があった訳ではないのですが、道中は山道の途中にある道の駅や、突然現れる集落、普段街中では見られない植物の密生地帯があったりして、個人的にはワクワクが止まらないんです。

あいにくの雨模様でしたが、少し窓を開けると10月の涼しい風が心地の良い夜でした。

でも、道中のほとんどの時間、Aさんは助手席でスマホの画面をずっと見ていて、僕はとても悲しい気持ちになったんです。

Aさんも悪気があった訳じゃなくて、たまたま調べものがしたくなったのと、友人からlineが来たので返事をしていたのだと思うんです。

でも、せっかく普段は来ない場所までドライブしに来ているのだから、一緒に景色を見たり、お話をしたり、今この瞬間を共有したいと考えていました。

スマホの画面って意外なほどに明るくて、その時は夜だったので特に、助手席で光るスマホの画面が視界の端に眩しく映っていました。

本当は僕が「悲しい気持ちになった」ということを、そう感じたその場ですぐに伝えるべきだったんだと思います。

でも、それを伝えることでAさんが嫌な気持ちになったりしたら申し訳ないとか、余計な事を言ってせっかくのドライブを台無しにしたくないという思いが勝ってしまい、その場では我慢して飲み込んでしまいました。

でも、心のどこかで僕の中に「嫌な気持ち」だけが残ってしまい、Aさんから話しかけられても、冷たい態度を取るようになってしまったのでした。

なぜか不意に、「思ったことは伝えないと思っていないのと同じだよ」と子どもの頃に教わったことを思い出しだしていて、後日になってしまいましたが、僕はAさんに「嫌な気持ちだったこと」を伝えました。

でも、「思ったこと」を振り返ってみると、まだ言っていない「ありがとう」がたくさんあることに気が付いたので、少し照れくさいけど次に会ったときに伝えようと思います。

大人になると、気持ちを伝えるのがどんどん難しくなっていく気がしています。当たり前だと思っていることや、言わなくても伝わると思っていることが多すぎる。

でもきっと、当たり前なんかじゃないし、相手にはほとんど伝わっていないんじゃないでしょうか。

コンセプトを固めたい

ブログのコンセプトを固めたい。

いろんな人の悩みにフォーカスするというところは決まっているんです。けれど、具体的にどうするのが良いかまだわからない。書き方というか、問題提起の仕方というか。f:id:okimochiyasan:20231016233239j:imageこれまでプライベートでも仕事でも、いろんな人(性別も年齢もさまざまな人たち)の悩み事を聞いてきました。みんな最終的には自分の心の中に答えがあって、でもそれが心のどこの引き出しの中にあるのかわからないという感じでした。

だから、あえてアドバイスらしいアドバイスをする必要はなくて、心の引き出しを開けるお手伝いをするだけで十分なんだということに気が付いたんです。そしていろいろな方法を考える中で分かって来たことは、心の引き出しは、物語の中でしか開けることができないらしい…ということ。

ここでいう物語とは、時系列に沿った振り返りのことであり、簡単に言えば、それぞれの人生で起きたこと(思い出など)を振り返ってもらうことです。特に、ディテールにこだわって振り返ってみないと思い出せないようなところにこそ、大きなヒントが隠れていたりするものです。

こんな風に、自分なりに学んだことや気がついたことはたくさんあります。言語化するのには時間が掛かると言い訳こそすれど、それはもう数えきれないほどのエピソードがあります。それもこれも、僕には昔から、なにかある度に悩みを聞いてくれている人生の先輩のような人がいて、その人との対話が、僕の学びの源泉になっていたからでした。

彼とは15年の付き合いになります。近所に住んでいる訳でもないので、いつでも気軽にという訳にはいかないですが。それにしても、僕にとっては多大な影響を与えて貰ったと思います。そういう存在って案外、誰にでもいるものではなくて、実はとても貴重なんだということに最近気が付きました。

僕はポンコツだし、僕が社会の役に立てることなんて限られています。でも唯一、人の話を聞くことに関しては好きだし、ずっと聞いていられるし、人の話を聞くということについて考えることが苦ではないので、これをなんとか役立てたい。人の話を聞くために考えて来たことを、このブログに書いていこうとは思うけど、こういうのはまとまりがないし、コンセプトというにはあまりにも粗削りだと思うんですよね…。

こういうときは、まとめるのがうまい人に相談した方が良いんだろうな…と思ったり済します。僕は人の考えを整理するのは得意なくせに、自分のこととなるとまるでダメでして…。そのくせ人には頼ろうとしないという悪い癖がある。良くない、これは早く治したい癖です。

ということで、たまには人に頼ろうと思います。